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猫の地球儀
秋山瑞人

 恒星系、あるいは惑星系を、四つの力の鬩ぎ合う場としてではなく重力の系であると見立てた時、惑星あるいは衛星のありようについて一つの見識が導き出される。
 それらは母星へ向けての、永続する落下の途上にあるのだ。
 『猫の地球儀』の舞台になるのはこのような落ち続ける人工衛星、トルクだ。
 トルクの猫社会は、落ち続ける世界のありように基づいて構成されている。だから、その社会では落下とは制御され、持続されるべきなにものかに他ならない。
 スカイウォーカーが迫害される必然性も、この落下観から合理的に説明されうる。
 地球儀とは、トルクの落下の原因である重力源に他ならないわけであるからして、制御を失った落下は必ず地球儀へ到達して終わる。落ち続ける事によって維持される世界の中で、落ち切る事を希う、重力への殉死願望を抱く事は、ほとんどそれだけで反社会的だ。
 地球儀へ落ち切ろうとするスカイウォーカーは、だから迫害される。落ち続ける事によって維持される世界では、落ち切ろうとする事は社会を崩壊に導きかねない罪悪だ。
 無論、地球中心の質点へ向けて諸物体を引き寄せる重力の本質を鑑みれば、衛星軌道を永遠に落下し続けようと言う猫社会の指針は極めて微温的かつ欺瞞的な態度ではあるだろう。
 であればこそ、真実であるが故の禁忌を希求するスカイウォーカー達の昏い欲望は、より一層の切実さを帯びて立ち現れてくる。

 さて。
 このような落下のモチーフはまた、スパイラルダイバーの側においても同様に存在する。
スパイラルダイブ、とはそもそもどのような競技であったのかを考えてみよう。トルクの自転から切り離された中心柱の無重力空間の外壁を、カタパルトで打ち出された勢いで周回しながら殺し合う。
 中心柱が無重力である理由は簡単で、それはトルクが自由落下の最中にあるからだ。永続する自由落下の中心で、螺旋階段を周回する事で生じる擬似重力を如何に御するか、すなわちどれだけ上手く落ちられるかが勝負を分ける、スパイラルダイブとはそういう競技であり、そしてこの競技の勝者、最高の重力の制御者はかつて猫社会の王者でさえあったのだ。
 あまりにも分かり易い、スカイウォーカーとの対比がそこにはある。

 かくて舞台は整う。
 スカイウォーカーの幽は落ち切る事の天才で、スパイラルダイバーの焔は落ち続ける事の天才だ。
 この二人の天才がほとんど運命的に出会い、そして対決する。
 最初の対決で幽が勝つのは、何のことはない落ち切ろうとする幽が明日をみていないからだ。多爾袞を倒してアパシーに陥っていた焔とでは覚悟の量が所詮は違うのであって、腹の据わった奴が腹のたるんだ奴に負けるわけはないのである。
それはもうみんなが良く知る勝負の鉄則って奴であって、そういう良く知られた厳格な因果への忠実さこそが秋山瑞人の筆力を支える根底にある。

 無論、東大SF研はアンチ秋山瑞人サークルであるからして、もっともらしくありがちなお話を真実めかして語ってみせる能力なんかには決して、断じて、断固として、絶対に屈したりはしないのであるが。
 社会が認める=社会に益する天才と、社会が認めない=社会に益しない天才なんて、なんて欺瞞的な二項対立だろうか。
 ガリレオ・ガリレイが当時の異端だったから現代社会にも益していないなんて、一対誰に言えるだろうか。誰にも言えはしないだろう。それに、高々スポーツヒーローなんて大衆のガス抜きに使われて支配体制の邪悪を隠蔽するだけだ。
 スカイウォーカーが犯そうとする禁忌はただ単に禁忌なのではない。真実であるがゆえに禁忌なのだ。その真実性をまるで追究する事無く、スカイウォーカーたちを禁忌を禁忌であるがゆえに犯そうとする反社会分子としてのみ扱いたがるのは、あまりに片面的な議論であると言うほかないだろう。

 こんな欺瞞的な二項対立をまことしやかに成立させているのは、つまるところ重力というモチーフだ。落下させるものとしての重力。
 それに対して可能な態度は確かに落ち切るか落ち続けるかだけだろう。
 だが、視点を転じた時、あれほど抜き難くトルクと猫たちを縛っていたはずの世界の絶対的な規則としての重力が、地球の引力と遠心力とトルクを打ち上げたロケットの推力の合力でしかない事もまた明らかなのだ。
 宇宙の諸形態を成り立たせる四つの力の一つとしての万有引力にならば、確かに科学的に反抗する事は不可能かもしれない。
 しかし、高々一惑星系の合成ベクトルにならば。もしも宇宙船に乗った猫が、地球ではなく、木星、あるいは土星に向かい、その周回軌道に入る時。あるいはさらなる遠方へ向けて、これらの巨大惑星のスイングバイ軌道を利用する時。
地球の重力は猫の運動を縛る唯一絶対の根拠では既にない。外宇宙へとひたすら飛んでいくその運動は、既に地球への落下とは呼ばれ得ないだろう。

 このような、ちょっと考えればすぐにオルタナティブが見つかるような二項対立に、ゆめだまされてはならない。
 落ち切りもせず、落ち続けもせず、飛翔する事は、いつだって不可能ではないはずなのだ。
 その前向きな可能性を、夢の解釈論とロケットの原材料に関するディティールで予め幽の物語としては封じ込める手際のよさは、この際口を極めて罵られてしかるべきだろう(余談ながらここには別種の矛盾もまた存在する。猫の血を絞る事に躊躇しない幽が、何故紫禁の箱城のてっぺんに登りつめる事は躊躇するのだろうか。夢を実現するための邪悪な手段としてその両者は何も変わらないはずだ。幽が認めないはずの「程度」以外は。大集会が円の仇であるという、幽の個別的な事情が絡んできているのだろうが、そのような幽の思考回路は、あまりに作者にとって都合が良すぎはしないだろうか。そもそも、高々地球儀へ到達する事程度の夢とそれが反社会的にしか達成されえない事の不釣合いさに、何か邪悪なものが潜んではいないだろうか)。

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