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【2003年8月】

8月31日(日)  即売会
 瞳の中の輪舞で売り子。廃屋譚の。
 セメレ計画第一報が出る。
 なんかコピーライターはすごいとかなんとかさんざ煙幕張ってくれちゃってたけどそこそこじゃないのよ。
 ふたなり厳禁とかいいつつ女の子にネクタイをさせているのはどうか。ネクタイ=チンコというのはこれはもう当たり前の話で、「タイが曲がっていてよ」「俺の股間のタイはイグアス滝だぜ!」みたいな会話はありとあらゆるオフィスで行われているのである。恋愛課とかの。
 もう世の中なんでもチンコのメタファーですよ。チンコのメタファーじゃないのはチンコくらいのもんだ。
 チンコチンコ連呼すなや。23にもなって。チンコ連呼して死ねよとて二十三まで育てしや? いやでも他の目的もなさそうなんだが。ウチの両親。

 完全自立。
 うーん・・・・・ああ・・・欲しい、なあ。金ねえけど。
 正直基本的には半透明以降のLEDのキットってそんなに興味がない。だって明らかに永野の頭の中に追いついてない永野の絵にすら追いついてすらいないのだもの。
 でも・・・・立つんですよ?

8月30日(土)  いいか良く聞け
表通りじゃお前は確かにビーナス。
 だけど一つ入った路地では、ねえ。

 『NOëL3』またやってます。
 そういう分かり易い自分は好きですアイラブミー。
 やはりリアルなギャルゲーの人はこれを知るべきだと思った。
 リアリティーを”この現実”の断片がどれだけ埋め込まれているかによって量ろうとする、そういう試みが一体どんな怪物的な”ゲーム”を必要とするのか。つまりこれが・・・・どんなにつまらない”ゲーム”か、を。
 同時にこの『NOëL3』が、ひいてはこのシリーズがギャルゲームとしては稀有な大傑作である事も疑いようがない。
 ラネージュのファミ通でのクロスレビューで、浜村通信一人が物凄く高い点数をつけていて他のレビュアーが冷淡極まりなかったなどという事があったのも、このシリーズが有する特異な何かを象徴している。同時に浜村のゲームプレイヤーとしてのありとあらゆる方向に高い資質を示すものでもあるわけだが、それは今は措く。
 彼女があちら側にいて、俺はこちら側にいる、というのがいい。『3』は『NOëL』の後日譚だから、彼女はあちら側への通路を既に開いてくれちゃってるのね。で、そのあちら側への、彼女じゃないチャンネルから、俺が彼女達を垣間見る。垣間見は浪漫。

8月29日(金)  どうしよう!
 凱龍輝ってもう出てるのね!?
 どうしよう!
 買わない理由がないよ!!
 いや、ほらさあ、こう見えても昔気質の恐竜ファンだからさ、カルカロドントサウルス科って胡散臭いと思ってるじゃない? だからゴジュラスギガは回避可能だったし、セイズモは流石にでか過ぎるし、動力のないZOIDなんてZOIDと認められないし・・・・と正当な買わない理由があったんだけどさ! これまでは!
 どーしよ・・・・。ZOIDはすぐ在庫切れになるからあるうちに買っとかんとなのは確かでさあ。ケーニッヒウルフ今更欲しいんだけどもう売ってないんだよねえ。いや、火器がないのにこの値段はねえだろ、と思ってしまったんだよねえ・・・・・。じゃあなんでグスタフは買ったのかって? いや、だってないと兵站で困るじゃん。みんなやるだろ!? 脳内バトスト!?
 先にこっちかな、とも思わんではない。ゴルドス・・・・。
 わかったこうしよう。旧カラーのゴルヘックスを出してくれ。そしたらセイズモとゴジュラスギガも買います。

いずみのさん
 属性バトルというのはもともと転の字の言い方だったりします。富士見ミステリー文庫特集のなかで俺が適当に吹いたJoJo論を彼が膨らませてくれた時に出てきた言葉です。
> あの三人の間柄でも「互いの勝利条件を支えるために力(あるいは最小限の助力)を尽くす」という形での「友情」なら描かれそうだな……という雰囲気が出てきた気もします。

 これは確かにその通りですね。
 そのような関係は我々のリアルにおいては友情と呼ばれうる、けれども少年漫画の構造を支える柱としての「友情」ではない。

> そうすると、「見栄切り」は「友情」の代換物ではなく、主人公サイドの異なる「勝利」を明文化(結合化?)するためのツールということになるでしょうか。

 見栄切りのなんたるかはまだよくわからない、というのが正直なところです。
 少年漫画は昔から主人公の人生観や作品のテーマを大ゴマで言葉にして語るものでした。
 そのような古典的な大ゴマとどこが違うのか。そしてその違いが導く新たな「友情」の形とはどんなものなのか。
 いずれにせよ、「ツバサ」には注目していきたい、ということですかね。

 やの人たちがそもそも「一対一の特権的で排他的な関係性」を本当に欲しているのかがまず疑問なんですが。
 聞き齧りの知識で偉そうな事を言ってしまいました。
 ただ、「特権的で排他的」ではないにしろ、一対一の関係を切り出そうとする傾向はあるのではないでしょうか。

8月28日(木)  学問の醍醐味
 学問の醍醐味とは、分かる事によって分からなくなる事にある、と思います。
 何がいいたいかっつーとだな、レポートが書けません。
 しっかもそんな時に限ってみんな面白そうな更新しやがって。
 みんな俺が教職の単位落とせばいいと思ってんだろ。
 いいからLANケーブル引っこ抜けや。わけわからん逆恨みする前に。

 なにはともあれ、答えてる場合じゃねえ。
 ここからここ行ってここ
 微妙に俺もリアルタイムのライトノベラーじゃなくなってるね、こうしてみると。
 梶尾真治は確かにショッキングでした。
 昔『チョウたちの時間』を20年も前の小説だから流石に文体が古い云々、と書いているサイトを見た事があるのだけれど、その時以来の衝撃でした。
 100質自体は殴り書きだから書き足すかも。

 あちこちへのレスはまた今度って事で。

8月27日(水)  映画『英雄 HERO』
 残剣の侍女の如月役の女優さんが可愛かったです。ああ、チャン・ツィイーってこの娘なのね。へえ。
 みんな『史記 刺客列伝』大好きなのね。
 私怨を捨てて大義に就け、というメッセージはまあそういうものとしても、それが残剣がたどり着いた剣と書の最高境地として語られるのには違和感が残った。お国柄かしら。言うまでもなく読み筋はここでして、名人っていうと脱俗的な印象が拭えないわけです。

こちら。
 興味深い問題提起だと思ったので、ついつい差し出がましい真似をしてしまいました。
 友情の不在は現時点では勝利の不在を経由してからしか言えない、というだけで、それがあるというわけではないと思うのです。だから、どの道その不在はなにかによって代換されなければならない。
 その何かが何かは、『ツバサ』に関する限りは簡単で、過去のCLAMP作品の記憶なのだと思うのですが、それをもう少し一般化する事は出来るのかどうか。
 そのあたりが今後の課題。なんの?
 以下俺向けメモ。
 勝利を目指す中で生まれる友情とは集団的な、多対多の関係性であって、チームメイトたちあるいはライバルたちの全員が共有しうるものである。何故そのような友情から、やの人は一対一の特権的で排他的な関係性を読み取りたがるのか。
 友情圏内の特定の二人に特権的な関係が存在する、という構図は例えば飛雄馬と花形でありジョーと力石であり、すなわち梶原一騎の世界だ。フラットな友情圏は水島新司あたりではすでに普通に成立しているわけだが、何故そこから腐女子は時代を逆行したがるのか。
 友情の集団性と勝利は不可分である事を鑑みれば、やおいでは勝利が排除されているのか?

8月26日(火)  ひさびさ
 なんか久々な気ぃすんな。
 更新が滞ってたのは今更『大悪司』なんかやってたからじゃないでしょうか。さっちゃん凄い可愛い。ということはつまり強いって事です。攻撃方法が紅蘭を髣髴とさせるとはもちろん思ってますよ。

8月25日(月)  あうっ
久々に無駄な買い物した。フツーの攻略本だと思ったら、名状しがたいクソなファンブックでした。中身があまりにないのでどんな本か紹介する事もできません。
 あまりに悔しいので紹介されていた攻略サイトをぐぐってそれを見ながら猿のようにプレイ。

8月24日(日)  KOTOKOさんが好きです。
 でも象さんはもっと好きです。それほどでも。
 というわけでやってみました。
 が、今さらなので空耳アワーしてみました。ソラミミスト的にはサビ一回目とかいけてると思います。

Princess Bride!(作詞:うつろあくた,作曲:KOTOKO,歌:KOTOKO)

I wanna be your princess
I wanna be your princess
Tell me my prince what can I do for you
(24秒)
今から胸DokiDoki彼の部屋の前
宿題なんかせっせせっせやってる場合じゃないって
独占欲メラメラ待ってるだけじゃダメだって
勇気を出してknock knock小さな小さな大冒険
(44秒)
二人の進度どれほどここの戦法はno guard
好感度はword card 一世一度のseminude
ベッドは二人のisland これできっとvirgin road
私にはearly? それでもこの際だ アリ!
(1分1秒)
OHどうしよ林檎のブービートラップ
かじるなら甘いforbidden fruit
勝手に覗くわ鏡よ鏡
自分ノリでキャラ作り"Snow White"
(1分16秒)
乙女のPride夢のBride
Lovin' Callin' Feelin' Healin'
キッスをあげるよDarling
(1分24秒)
秘密に触れてよもう震えない
朝も昼も夜もずっと好きになってく
(1分29秒)
回るよ世界眩暈するくらい
Cryin' Smilin' Fallin' Flyin'
Charmin` Weddin` Darling! 
(1分35秒)
腕を伸ばしてよぎゅっと掴むから
朝も昼も夜もずっと抱きしめて

 しかし、そうだと思って聞くとそう聞こえるものだなあ。「キッスをあげるよDarling」とかそうとしか聞こえん。いや、曽我さんや今木さんの方が正しそうだとは思うのだけれど。
 それはそうと、KOTOKOさんの歌声を聞きまくったあとによそのロゲの主題歌を聞くと凄くアレですね。

8月23日(土)  映画『地獄甲子園』
 旧図書委員会メンツと飲み。近況報告が一段落すると高校時代のような他愛無いトーク。しかるのち映画。
 坂口拓と三城晃子の説得力の勝ち。最終決戦では用いられない魔球・スーパートルネードはひたすらかっこいいです。
 画太郎先生の事はある程度忘れるが吉だと思う。ある程度でかまわないのが原作をよく表現できている部分ですね。良作。
 帰ってD.C.ダ・カーポとコスモス荘。
 久しぶりにちゃんとみたらなんかちょっとD.C.が幸せな気がしましたよ。音夢と眞子がふつーにお友達っぽいのとか。いや音楽の使い方が好きなの。俺らしくもねえ。

8月22日(金)  コミケの収穫
 自分の金で買った、特に良かった奴だけです。

みかんねこ
『CAT LOGICAL』
 サークルみかんねこの二年間に渡るシスプリ活動の総集編。これでシスプリは最後との事。さらにメンバーのお二人は今後個人での活動に重点を移すとの事。それぞれこちらこちらですな。
 大して追いかけてたわけじゃないけれど、やっぱりこのコンビのそれぞれの絵と話のバランスは一種奇跡的だと思う。
 俺設定剥き出しで、絵も勢い最重視、話はいつでもどこまでもレトリカル・ラヴな都路さんと、お話は基本的に原作に忠実で、解釈の独自性には欠けるけれどまとまりがよく、絵は整っている巫さん。そして二人とも漫画はめっさ巧い。
 一粒で二度美味しい、合体サークルの教科書的存在だったと思う。
 妹の事に言及すれば、春歌がフィーチャーされないまま終わるのがとても残念。そもそも可憐、鞠絵、春歌のお嬢さん系妹にこの人たちはあまり興味を持っていないらしい。
 白雪も比較的冷遇されているかしら。白雪が料理番の機能性に押し込められる、というのは良くある話で、例えばポケストってのは最終話以外基本的にそう。それはつまり、彼女がそれに甘んじてしまうような人、内気で押しの弱い人であるからなのです。シスプリの最初のゲームやりゃそれは分かる。何度も言うけど、彼女は「食・べ・て・ね&hearts」って口に出して言えたためしがないんですから。繰言になるので白雪の話はここまでー。
 春歌という女の子についてはしのぶさんの兄君様を発見しても春歌はすぐに走り出したりはしないという言及が素敵。だから、レトリカルに捻りを入れるには春歌と兄君さまの関係―いっそ交際―は順調すぎる。で、兄への行き過ぎた恋心からギャグにするのは咲耶と被る。さらに常識人のポジションが可憐に占められるならば、このサークルのお話に彼女の居場所は確かにない。
 描かれなかったものの話しかしない批評は卑怯だと思います。
 限界突破してひねくれた鈴凛が可愛いです。あと「亞里亞様がしてくださって感激/してくださる亞里亞様お素晴らしい」というスタンスとかぐっときます。

エルアポ軍団
『星フル夜空に口づけを1』
 『NOëL3』本。
 これはマジすげえ。三人組の高校入学からあのクリスマスの夜までを、俺設定入りこみまくったクラスメイトたちのエピソードを挟みながら描く連作の第一弾。誰もがやろうとちらりと思ったとしてもそのまま忘れるタイプの壮挙に、真正面から挑んだその心意気たるや! おかげで一巻丸々費やしてもまだ一年次の夏休みにすらなってないわけだが。
 心意気に押しつぶされないだけの地力がこの人にはちゃんと備わっていて、つまりそれは一クラス丸々の人数を見事に捌く構成力である。井口と林の話とか夏木と浅加賀の話とか三人組と微妙に関係ないんだけど、そう言うのを挟みながらも基本的には三人組に訪れる学生生活の事件を通してクラスメイトたちとの関係が抑えた筆致で描かれていく。その中で浮かび上がるのは、1−Bというクラスである。今やクラスは共同体の単位として機能していない、なんて指摘は多分意味がない。描かれているのは大袈裟な共同体性なんかじゃそもそもないから。このクラスは、無根拠―偶有的、と言ってもかまうまい―で、なおかつ固有の場所だ。この場所はその上に立つ人間とその関係性を偏向させるが、それは殆ど唯物的な、無(非? 前? 反?)意識的な作用としてそうなるのである。
 あえて欠点を挙げるとすれば、黒ベタの夜空の閉塞感が全編を覆っている事。殆どトーンを使わないアナログな画面作りとそれは不可分の関係にあるわけだが、そのアナログさが『NOëL』のインダストリアルデザインの秀逸さとコンフリクトしている感もある。
 VPというアイデア、ひいては『NOëL』のコンセプトの秀逸さは、女の子のさらに向こう側を垣間見せる開放感にも多くを負っていた、とすれば、黒ベタの夜空に代歩たちを閉じ込めてしまった事の是非は問われてしかるべきだろう。
 あのクリスマスの夜が訪れると既に決まっている事も閉塞感に繋がってるかな。メランコリー?
 ところで最近丸顔に弱いです。ので、この本ヤバイくらい絵が可愛い気がしてます。絵は巧いです。漫画の要求から逃げてないのも好感が持てる。

8月21日(木)  あ、
D・N・Angel見逃した。

8月20日(水)  勝利・努力・友情
 無論正しくは友情・努力・勝利ですのでお間違えなく。
 少年漫画とは、まず勝利条件を提示するところからはじまり、その勝利条件に向かって努力が行われ、その努力の過程で友情が育まれる。
 つまり、友情・努力・勝利の逆順でしか提示されえないって事ですね。
 JoJo的な属性バトルとDB的な強さのインフレーションてのは努力の位相の違いです。事前に努力するか、現場で努力するかの。
 JoJoのように徹底してありものだけで戦う話も珍しければDBのように毎回律儀に特訓する話も珍しいのであって、この両者は一作品の中で両立しているのが普通です。

 で、問題の( 2003-08-11)『ツバサ』にこれを当てはめて考えた時、まだ連載がはじまったばかりの、『星矢』で言えば銀河戦争ギャラクシアンウォーズも終わってないような作品を捕まえて、友情が描かれていない、と指摘する事はあまり意味がない、時期尚早なのではないかと。将来的に描かれるにしろ描かれないにしろ。
 ところで少年漫画における双方向的コミュニケーション、友情は、前述の通り目的が共有されるところ―勝利が目指されるところにおいて成立します。
 メインの三人が三者三様の勝利条件を抱え込んでいる『ツバサ』には、むしろ勝利が抜けている、と言った方がいい。
 勝利のないところに友情はない。とすれば、勝利と友情の、本質的には勝利の穴をどう埋め合わせるのか。ええ、結局描かれなさそうだという話です。
 見栄切りって結論になるのかなとも思いますが、見栄切りの文法ってのは正確だけれども片面的な見方で、その裏面てのはとどのつまりもこな先生の画力になるわけですね。

 なお、個人イデオロギーとか見栄切りとかは、原哲夫と萩原一至について考えるべきでしょう。GBはイデオロギーが実はあんまり個人的じゃないと思います。ドクタージャッカル以外。

8月19日(火)  林望『恋の歌、恋の物語 ―日本古典を読む楽しみ―』(岩波ジュニア新書)
 古代から連綿と続く国文学の中心的主題を恋愛であるとして、数々の古典からその主題を取り出してみせる。
 『万葉』『古今』『新古今』は言うに及ばず『源氏』、『伊勢』、しまいにゃ『平家』まで引っ張り出してくる高級カップリング厨ぶりは中々に大したものだが、無論、国文学が主として女性の教養であって、男性は漢文学を修めていたというあたりは無視。勅撰三漢詩文集(『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』)とかにちらとも触れないあたりはまあ、岩波ジュニア新書だよねえって感じ。
 惜しいなあ、ともずるいなあ、とも思うのは天皇と言う問題系をスルーしてしまっている事。
 漢文脈に即した実社会―貴族男性社会―の外部に国文学は成立した。
 貴族男性社会の外部とは何か。
 天皇(=神)と女性である。
 だからこの二つの外部を巡って展開し続けるのだ。
 ”物語の出で来はじめの祖”「竹取物語」が天皇とかぐや姫の恋物語だなんてのはマジで出来すぎた話だと思うのだが、その辺には触らないのね。惜しい。ちゅーかはっきり言おう。不便だ。卒論のネタにならねえ。
 でも、いいタイミングで寄物陳思って言葉を思い出せたのでそれでよしとします。

8月18日(月)  レス
 ああ、うん。漠然とそう。

 痴豚かっけえ。
 俺が言い続けてるのは多分こう言う事です。

「ZEROSUM10月号増刊WARD」
「九龍少女」高遠るい
 手数に対して分量があまりに少ない印象。
 せめてこの1.5倍のページ数があればねえ。

 某所の飲み会楽しそうでいいなあ。
 参加する資格があったのかどうかは微妙だがちゅーかまあ呼ばれてないんだけど、とりあえずマリみてに関しちゃ参加者の誰よりも泥沼な論争をしている自信あるぞ(笑)。
 ・・・・・・ああ、いい加減レスしなきゃねえ。いやけっこー気力使うのよ、アレ。
 メモ。
 (実際に叫ぶかどうかは知らないが)「パンツくれー」というキモヲタと、「加護ちゃんにあこがれる」とかいう子ども連れとが同じ空間に同居し、ともに声援を送る、そこになぜ「ユートピア性」を発見できないのか。
 俺に向けられてるのもこういう批判なんですね、多分。
 まあ当然直前の文脈を引いて「みんながそれを出来たら評論家はおまんまの食い上げですぜ」って言うしかないんですが。
 オタク男性なんてロクなもんじゃねえけどそれでも一生懸命生きてるのでイジメないでください。

8月17日(日)  C64
 廃屋譚で売り子。
 その後、SF研と水上バスでセカイ分とテクノスケープ分を存分に補充した後、浜松町のフレッシュネスバーガーでまったり語りモード。
 直前までギブスンの話してたのにアリスソフトとコンピューターゲームが見せた夢の話のところでどうしてガーンズバック連続体って言葉が出てこない?>俺
 セカイ系ってのはおっさんの卑小さと風景の偉大さの、その落差を不思議がる感性であります。偉大な風景がチンケなおっさんの集合体に作られたという事実をおっさんも意外とやる、と解釈するのは要素還元主義というやつで、おっさんを寄せ集めて出来上がった組織はおっさんの総和よりもはるかに大きい、と知るべきなのである。柴野拓美はそれを自走する集団理性と呼んだ。
 なお、そこで探偵とか犯人とかの「スゲえおっさん」という仮想存在を持ち出すと本格探偵小説になります、笠井潔曰く。ホントかぁ?
 で、それを持ち出さない時には風景と視点人物が直截に出会うようなそれっぽいセカイ系になるわけですね。

 ところでみなさんは心の中で「挨拶に来なかった奴リスト」ってつけてますか?
 俺がつけてるとかそういう事ではなく、誰かのそのリストに載ってたらやだなあ、と思っただけでした。俺もまあつけてはしまうのですが、会えると思ってたのに会えなくて残念でしたリストとしてしか機能してませんいやマジで。ちゅーか「挨拶に来い」とか居丈高に言えるほど大物じゃないし、俺。
 でも、他の人はそうとは限らないでしょう?
 でもってなうびびり中。

8月16日(土)  なんか。
 なんかイリヤの悪口とか書き殴ってるみたいですよ?
 色々差し置いて。
 なんかここの「せん」とかって奴に猫の悪口も書いてるみたいです。
 こみけじょーほー。
 十七日だけ行くます。
 A-35a廃屋譚で売り子をしているはずです。

参加した企画:
 ウ-01b東京大学SF研究会「せん」「ほん」

8月15日(金)  雛子の誕生日。
 えーっとなんつーかつまるところ・・・・興味がない。
 可愛らしいお嬢さんだとは思いますけど、ライ麦畑で「兄チャマーっ!」て叫びながら抱きついてきたりとかはしてくれないし。で「四葉」って名前を呼びながら抱き上げても彼女はきょとんとした表情をするばかりなんですよ。
 ・・・・恥妄想でした。

8月14日(木)  東京23区制服WARS その1
 知らずに買ったら桑島法子。
 森川サンもそういう事は書いておいてくれないと困る。俺だけだそんなんていうかナンだ森川サンてなれなれしい。
 でもこのゲーム、箱にはまるでキャストが書いてないのね。キャストの頼らずに売ろうという真摯な姿勢の現われなのかそれとも根本的になんにも分かっちゃいないのか、判断に苦しむ。
 なんだ、桑島のこの声。聞き覚えあんなあ。

 はい、クリアしました。プレイ時間は7時間弱ってとこでしょうか。
 あ、なんかまともなレビューとかはこのへん当たってください。みなさんすごくまっとうです。付け加える言葉はあまりない。
 さて。
 東京を舞台に、ぶっちぎろうとして東京への愛情に足を取られて思わずまともになってしまった代物って嫌いじゃない。なんせ一番好きなエロゲは『絶滅キング』だってくらいの人ですから。いや、このゲームまともなんですよ、一話一話の構成とかさ。全体で見た時に多少伏線やら書き込みやらの不足とか唐突さとか感じんではないけど。ゲームシステムもそこそこ考えてあるし。あくまでそこそこだけど。木村貴宏だし。いや原画全部じゃねえけど他の人も十分上手いし。
 でもね。何分このゲーム正確じゃないのよ、地図が。そんな自由が丘駅見た事ありません、とかさ、思っちゃうわけよ。渋谷駅と松涛公園近すぎ、とかさ。
 まあだから一番好きなマップは新宿区ですね。嘘だから。最初っから。その次が港区。赤坂見附、テレ朝通り、都立中央図書館、東京タワー、竹芝埠頭、お台場っていう、俺の頭の中では微妙にバラバラだった各スポットが一気に結び合わされる、認識の枠組みへの衝撃があります。流石にそれを赤坂見附駅前に集める愚は犯していない。
 港区がもっとちゃんと港区らしければそれだけでこのゲームを傑作呼ばわりしてはばからなかったんじゃないでしょうか。

8月13日(水)  そんなわけで
naked mindでした
 悲しい事があったので、しとねの画力が懐かしくなったのでした。

 これを読んで思うのは筒井の文学観のアホくささでさ。なんつーの、イマドキ舞城褒めちゃう人レベルの露悪趣味? 叩いた記憶があるわ、昔。これね。なんかこの頃から中々本題に入れない俺がいるなあ。
 この記事に関して転の字とコミュニケイトできなかったのです。
 俺はここに「人間の悪さを描くのが本物の文学だ」というメッセージを読み取り、そしてそのような文学観が古臭いと言っていたわけだが、どうしてもそれが伝わっていなかった気がする、と書いていて気付いた。
 『「人間の悪さを描く文学」はダメだ』っていう俺の言及は「SFは人間の悪さを描く最底辺の文学だ」という筒井の言及と凄く似てるのね。そうなると前者になくて後者にあるのは「SF」の文言だけだから俺はSFを批判された事を批判しているように見えたわけか。はあ・・・・なるほど。
 俺はパフォーマティブにあの文章をSF賛美と読み、彼は俺がコンスタティブにあの文章をSF批判と読んでいた、と思っていたわけか。・・・・・・はあ。

8月12日(火)  桑島法子への
愛情が募ってきたので今僕を笑う奴はきっとケガをします。
 俺に田舎って事を教えてくれたのはあのひとでした。あと都井睦雄。

8月11日(月)  じゃあハルヒはどうなんのさ
 キョンが承認し、キスをするのはかけがえのあるハルヒです。「年相応の線の柔らかさ」「クラスメイト」(p286)「なんてベタなんだ」(p287)「こういう時は目を閉じるのが作法」「誰がハルヒにこうしたって」(p288)と統計的に把握されたキスする年頃の男の子と女の子像をキョンがなぞる事で、そのような統計的把握にハルヒは逆らいがたく落としこまれてしまう。
 かけがえのなさってのは多分二つの相があって、それはつまり必然性と偶然性なわけです。
 そこにいる確固たる必然性があるという事の尊さと、偶々そこに居合わせてしまう事の尊さ。
 虚無的な人生観てのはこの二つのかけがえのなさのバランスを見失うところに起こります。
 必然性を断念せざるをえない事に拘りすぎれば無気力になりますし、偶然性だけに拘れば刹那的になるほかない。
 さらに理想社会の到来の必然性を確信する事で日常的な偶然性の価値を見失うというニーチェ的なニヒリズムもあるわけです。
 さて、それでは世界の中で神として本当に必然性をもっている何かが陥る心的状態は虚無的だ、と呼びうるのでしょうか。
 そんなのわかるわけありません。だって神様の事ですから。神様に人間の発達心理学が適用出来るわけがそもそもないじゃないですか。苦痛を学習し終えた状態で生まれてくる、なんて事だって出来かねないんですから、神様は。

 なんかとっちらかって来ました。ので整理。
 kagamiさんの解釈の問題点として
(1)ハルヒの能力を確定的な事実として扱う
(2)ハルヒのリセット能力の覚醒時期
(3)ハルヒを神と呼びつつその内面を人間的なものと捉えている
 という三つがあり、あんよさんもそれを引き継いでしまっている、という事ですね。
 そしてそれはハルヒに意地悪な作者の誘導に乗せられたからではないか、と思っているわけです。

8月10日(日)  ひとやすみ
 ここ。
 何故今『KANON』かここのせいって事でいいの?

 どうも。
 曖昧な書き方でしたね。反省。
 他人の不幸や悲惨を、自分の快の重要な根拠にする発想だ、と言いたかったわけです。この場合”自分”は主人公=プレイヤーに限らない。≠主人公なプレイヤーでかまわない。非攻略対象キャラの悲惨に由来する「摩擦」を堪能した、というのならばそれはこのような発想に立ったのだ、と言えると思います。
 別に間違ってるわけではないのでまあ堪能されたらよいと思います。俺もそういう悪趣味な代物はそれはそれで好きですし。アージュのゲームとか。

>奇数と偶数
 まあ重ね合わされているでしょうね。それがどうかしたのでしょうか。

8月9日(土)  ハルヒについて
 ハルヒって女の子は正直好きです。可愛い。
 正しく思春期してる。ってことはつまりガキって事ですけどね。
 あんよさんの解釈によれば彼女は生来のリセット能力者だという事ですが、俺は必ずしもそうは思いません。
 ハルヒの常識人としての意識が十分に発達していなければ、彼女の能力はもっと滅茶苦茶な世界を作り上げているはずです。
 だから、彼女の能力は三年前の情報爆発の際に目覚めたものと考えられるべきだと思います。
 統計的思考の原因にハルヒのリセット能力を持ち出すなんてのは悪い冗談としか思えない。
 それは単純に一面の真実です。統計的な把握においては一人の人間はあまりにちっぽけな存在である。
 かけがえのなさ、とはそのような卑小さを忘却させてくれる、唯一的な巨大さの断念を慰めてくれるような身近なもろもろの事でしかない。そんなのはまあ仕方のない事なのでしたり顔で諦めて大人になるほかない、というかそうするまでもなくやりがいのある仕事とか愛する家族とかに縛られて統計的思考能力は鈍っていくわけですが、それを諦めたくないと気張っているのが涼宮ハルヒという女の子で、応援してあげたくなるのが人情というものでしょう。
 そんな彼女に嫌味のようにリセット能力が与えられてしまう展開のイヤさ加減がハルヒがあんなにも可愛いだけにかえって際立つ。
 穿った見方をすれば、ハルヒの能力は思春期特有のやり場に困るエネルギーのメタファーであって、それがある事にハルヒだけは気付かないとか周りの連中は気付いているとかってのは子供の子供なりの必死さに理解を示さず笑いものにしてくれようという底意地の悪い精神を感じます。
 続きます。

 この状況下で人様の言葉を引用するのはなんとも無責任ですが、現実逃避という言葉の意味はわからない。現実と妥協しただけの敗北主義者がリアリスト面をしているのはまったく笑えない話です。とかそらキョンはとっくに面白いメ(ハルヒ的には、だけど)に遭ってるからいいけどさ、じゃあハルヒはどうなんのさ。というあたりには共感を覚えるのです。じゃあハルヒはどうなんのさ。これがつまりはこの小説の最大の問題点だと思うのです。

8月8日(金)  「何か。」
 ご指摘ありがとうございます。
 勝手にお二人の意見交換はもう終わってしまったものと思い、掲示板のチェックをついつい怠ってしまいました。申し訳ありません。
 で、掲示板(522以降)を拝見したのですが、「ブラックユーモア」とか「あんよさんにはそのくらいの読解力はあると思いますけど。」とかはあまりフェアな物言いとも思えませんでした。この論法を用いればどんな言いぬけも可能になってしまいますから。
 尚、俺は「冗談めかして書いてはいるけど結構本気なんだろうな」と読んでいました。
 さらに言えば「ホントまとめて死んでくれ頼むからって思う」と書く事と実際にユダヤ人なり反革命分子なりをつれてきて組織的に殺す事の間には、大きな隔たりがあります。少なくとも「撃滅し殲滅して」と書く事と「ホントまとめて死んでくれ頼むからって思う」と書く事の間よりは大きな。この隔たりのうち、より小さなものを絶対視してデジタルに線引きをし、人をナチ野郎呼ばわりするのは凡そ詭弁としか言いようがありません。アイヒマンが引かれる文脈と、掲示板での死エロの評価
(「常に意に反するものにたいする答えが暴力や殺人などの反言説的な暴力示威、暴力による力の支配を求めているように感じられるのです。これは死刑台のエロゲーマーさんにも見受けられる特質であり、暴力という無言の排除、殺人という完全な排除をもってして、世の中を自分の意に動かそうとする思想です。)は微妙にずれているわけですが、それは明記されず、意図的に(ito的にって出ました)混同させようとしているようにも見受けられます。
 が、それは『ハルヒ』とは関係のないお話。

 さて。
 まずはkagamiさんの『ハルヒ』解釈について。
 kagamiさんの一貫した方針として、ハルヒは神であるという古泉の解釈に立つというものがあると思います。
 しかし、これは作品の正確な読解とは言い難い。
 長門とみくると古泉はそれぞれに異なった事情を語っており、ハルヒが神である、というのは古泉の解釈でしかないわけです。
 特に長門はハルヒの能力の及ばない客観的な認識を得ている節があります(あなたと涼宮ハルヒは二時間三十分、この世界から消えていたp.295など)。
 外から見たハルヒとハルヒが見たハルヒは決定的にずれている。ハルヒが神であるという解釈は、そのずれの最も極端な例として提示されているだけです。

 ところで、ハルヒと情報爆発の間の関係は、あるという事しか示されていない。ハルヒの望みが世界に反映される仕組みは語られないわけです。
 このあんよさんの解釈も、ハルヒの苛立ちがどのような機構を経て神人になるのかは解き明かせていない。 
 それはまあ、多分人間には知りえないような何かが働いているのだろうと思うほかはない。無限である神の内面を有限の存在である人に推測できるはずがない、というおなじみの議論であります。
 その知りえない何かについての責任をハルヒその人に問い得るか、とか、その知り得ない何かのハルヒの感情の掬い上げ方は正確か、とかの疑問は残るわけです。さらに言えば、みくるや長門の監視・研究次第では、ハルヒの意志とその「何か」を切り離す事が出来るかもしれない。
 で、ハルヒと「何か」の関係が分からないからこそみくるも長門も監視するに留めるわけです。
 なお、キョンはハルヒと「何か」の特別な関係を最後まで全面的には受け入れません。そんなキョンだからこそハルヒにとっての特別な人になれるのですが、これは先回りのしすぎですね(さらに先回りをしておけば、この「何か」、ハルヒの意を汲みながらハルヒの意のままにはならぬ何か、真に作中の事象をコントロールしている何かに、俺は作品にとっての今一柱の神の影を見ます。すなわち、作家の。そしてこの作家の姿勢とこそ俺はハルヒのために戦ってやらねばならないと思います)。

 続く。

 どうも。
 あるって事をまあ意識はしておく、と言う事と主体的に引き受けるって事の間にかなり大きな差異を俺は見出しているわけです。明確な線は引けないです。グラデーションを描いているから。
 でも、任意のごく近い一点と任意のごく遠い一点を取り出せば、その間には明確な落差がある。その落差が存在しないという主張はいびつだと思います。無論、高橋さんの主張はそうではありませんが。
 やっぱりだからバランスの問題で、学会での質疑応答の最中にメインに考えるべきなのは目の前の質問者とその質問の事であって、アフリカの貧困層の事ではないだろうとそう思うわけです。

 占い式漫画ナビ。
 グループBでした。
 そうか・・・・。ももち麗子か・・・。『赤い文化住宅の初子』は面白そうなので探してみます。

8月7日(木)  お役目
 kagamiさんに対する批判としては、あんよさんご自身も仰られる通りつまり、作品を図式的に単純化し批判するそのような視点こそ、神とその対立者という二項対立を絶対化し、「共存の世界」そのものを唯一神の代わりに据えてしまうものなのではないでしょうか。それこそは、虚無性に一見立ち向かっているようでありながら、じつは虚無性を生み出す根源にある「他者を否定する唯一者」というものを、再生産してしまうのではないでしょうか。というところで話は終わってしまっているような気がします。ここ以外にも、あんよさんの記述の中には少しずつ違う角度からみるものの基本線は同じkagamiさんの思考法そのものに対する鋭い批判が随所に見受けられますが(例えば「あるべき」行動規範という文言について。、など)、それに対してkagamiさんの側からの返答がなかった事を残念に思います。
 勝ちとか負けとかではないですが、やはり『ハルヒ』が好きであるという立場から物量を費やしつつ精緻に説いたあんよさんの議論の方が説得的である、とは言えると思います。
 対話全体を概括して言えるのはそう言う事です。具体的なお二人の作品解釈については次回以降に詳説したいと思います。
 一つネタとして思ったのは、もしもハルヒが「面白いもの」ではなく「ああ・・・素晴らしい・・・素晴らしいよ・・・・なんて素晴らしいんだ! と思えるもの」を求めていたのならばkagamiさんはどうおっしゃられていたのだろうか、と。


それはそれこそバランス感覚の問題って奴で。
 例えば交通事故で死ぬ日本人は概算で言うと、まあ年一万人として一時間に一人いるわけです。日本国内の全ての見知らぬ交通事故死者一人一人の死を引き受ける事さえが、この数字を見るだけで大分無理っぽいとは思えてこないでしょうか?
 他の死因の死者たち、そして全世界の死者たちの数はさらに膨大なものになるわけで、やっぱりそれを全部引き受けるのは到底無理なのです。どこかで線は引かなければならない。
 その線引きってのはまったく人それぞれなわけですから、そこでアプリオリにナショナリティを持ち出してくる押し付けがましさが批判されるべきだって話なんじゃないでしょうか。

8月6日(水)  あのへん。
 なんにも悪い事をしてないのに巻き込んでしまったやまうちさんには本当にごめんなさい。でも、死エロを意識しないで『KANON』を語るのは俺にはもう無理です。レイプはされる方にも隙があるって議論だな、こりゃ。いやもうほんとすいません。
 それはそうと、やっぱりkagamiさんの批判は正直ずれていると思う。
『物語の構造への視点』から「存在すらしない」事が結論されるわけなんだから。無論、主人公の視点からは攻略されなかったヒロインについては知りえない。
 だから、攻略されないヒロインの状態についてプレイヤーは二重の無知に晒されるわけだ。すると、プレイヤーの内部に存在する攻略されなかったキャラに悲惨な目にあっていて欲しい、という昏い欲望は宙吊りにされざるをえない。
 で?
 で、って事はないがとりあえず主人公の選択により救済された女の子以外の者の末路はたぶん悲惨なものだろう、と想像すると、何か頭の片隅にトゲが引っかかったような気分になるが、このトゲを抜いてしまったら、『Kanon』の世界は摩擦のないものになってしまう。私はツルツルとした世界より、ザラザラとした世界のほうが好きだ。ってのは「俺の女にフられた男を見ると自分には恋人がいると心底実感する」って発想なわけで、間違ってるたぁ言わないが悪趣味だとは思った。

8月5日(火)  俺の宿題
・あんよさんへのコメント。
・ハルヒ、四葉、うみゃ、忍恋、ラッキーマン。
・『ARIA』と『神様のパズル』の差異。他者性による癒しとしての体験農業について。
・『学校を出よう』のレビュー。
・『おね2』のエロゲ性について。
・『ハピレス』が姉さん先生ではなくママティーチャーでなければならない理由。
・某所とか某所とかを保守反動呼ばわりして悪罵する。ポモ呼ばわりで思考停止すんなやとか。
・『凌辱女教師 〜麗人転落篇〜』(舞花) その5
・教職開発論のレポート。〆切8/7。
 いっぱいや。とりあえずはレポート。

 ありがとうございます。
 お待ちいただいても必ずしもご期待に沿える水準のコメントができるとは限りませんが、微力を尽くしてお役目を果たさせていただきます。

 多分そうですここの発展形として、これを書いたわけですが、その間にはべつに何かそういう言及を見つけたわけではないです。結局そういうことなんだろうなって思っただけです。やまうちさんとこもみつみさんとこもちょっと違う角度からの言及ですし。

8月4日(月)  申し訳ありません。
 くるぶしあんよさんの『ハルヒ』考察が完結しました。
 お疲れ様でした。

 恐らくこれが最後のメモ
http://www.puni.net/~anyo/diary/200308.html#20030801
http://www.puni.net/~anyo/diary/200308.html#20030802
http://www.puni.net/~anyo/diary/200308.html#20030802

 さて、俺はこのあんよさんのコメントとkagamiさんのコメントを比較検討してコメントしなくてはならないのですが、どうしても忙しくて身動きがとれません。
 申し訳ありませんが七日までお待ちください。
 取り急ぎそれだけ。

8月3日(日)  観音
 

 えーっとアレだ、安吾の「文学のふるさと」。投げ出された解釈不能、合理化不能な残酷さね。それは東・大澤の言うイコール単独性であるような偶有性とパラレルなのですか?>識者
 ふるさとがふるさとでしかないのはつまりこういう投げっぱなしが根底にあるにしてもそれをどうにかなんらかの理路へと回収しようとするのが文学的営為だからであります。
 さて。「ここでこいつが自己犠牲しますんで泣いてください」ってのは昔『FF』批判としてしばしば語られた内容であります。無論、『FF』がいくら批判されようともそれを繰り返したのは、そこにある強さがあったからに他ならないわけです。
 そういう自己犠牲の泣き要素としての卑劣さと強さはつまるところその取り返しのつかなさにあるのですが、マルチシナリオってのはそもそもそういう一回性の取り返しのつかなさが成立する根拠を奪うものであるわけです。自己犠牲しちゃうルートを選ばなければいい話ですから。
 唯一性を根拠とした物語としての美しさは、事此処に至っては最早成立し得ない、と言っていい。つまり一意に決定される因果、理路の美しさは。
 マルチシナリオのノベルゲームの物語性は、文学的な理路が許されない以上、ふるさとの側に強く引き寄せられる。身も蓋もない投げっぱなしの側へと。
 そういうノベルゲームの特質から鑑みれば、デウス・エクス・マキナ的な大救済はむしろよくそぐう。
 その時、奇跡の価値ってのは偶有的=単独的に現前してしまう事自体に求めていくほかないでしょう。

 なんだかんだでこの問題については、死エロの「ある女の子を選ぶとその攻略対象以外の女の子は決して救われない。『Kanon』とはこの世界の現実を反映した残酷なゲームなのだ」とか言って涙するお茶目さんはそれなりに数いたように思うけど、ンなこと普通は考えないよなあ。ギャルゲー2本もやれば、そういうものだって理解できると思うんだけど。栞シナリオ内にはあゆも名雪も舞も真琴も存在すらしないのだ。がやっぱ一番冴えてると思う。あゆシナリオでは栞は別に病気でもなんでもないサボリ常習犯の女の子だし、秋子さんも事故には合わないのだ。
 女の子達の、その子がメインを張るシナリオで獲得されるアイデンティティとしての事情は、シナリオが選択される事によって遡及的に構成される。であるからして、あゆのシナリオが選択されている以上、栞や名雪や真琴や舞の事情は構成されず、シナリオを背景にもったそれぞれとしてはアイデンティファイされえない=存在すらしない。
 もしも彼女らが我々と何か異なっているとしたら、それは過去に対する可能性の開かれ方の大きさだけだ。彼女達の過去は厳密に現在によってのみ規定されている。本来過去とはそういうものだが、我々は主観的な認識主体としてのありように縛られて、実体的な過去の実在を疑いきれないのだ。
 だから、「7月17日から7月31日までの14日間の毎日」というようなものってのは、この未来と同時に過去を確定させる条件としての現在って奴なのであります。
 あゆシナリオで栞がぶちまけたカッターナイフを隠すでしょう。あれはそのカッターナイフで香里になんか仕掛けようと悪巧みしてたからなんですよ。なんせ二人は喧嘩してますから。香里が自分に妹なんていないって言っちゃうくらいに。秋子さんが事故にあうのは前夜に垣間見た娘と居候のド迫力ファックを思い返していてぼーっとしてたからで、二人がド迫力ファックに及ばなければ=名雪シナリオに入ってなければ事故も起こらないのです。
 むう、これはちゃんと書いておかないと二ヵ月後には意味不明だな。ので、二ヵ月後の俺への注釈。
 現在に存在する記憶と記録により実体的な過去を我々は想起する。確定的な過去の原因の結果として現在を把握するって事ですね。
 それは結果から原因を推量しているに過ぎないのではないか。現在を蝶番にぴったりと閉じあわされた過去と未来に、原因と結果が同時(?)に生成しているとは考えられまいか。『Sense off』?

8月2日(土)  オフ会。
 向こうを張ったわけじゃないけどなんだか佐藤心さん、しとねとしとねの初オリジナル完成お祝い飲み会をやってきたのでした。
 佐藤さんの転の字の物真似が似ていた。
 色んな話をした。いつもの俺の桑島の話とか精力自慢とか。
 楽しかったですまたいつか飲みましょう。

8月1日(金)   我々は「眼鏡の向こうの少女」を見ているのか、それとも「眼鏡っ娘」を見ているのか!? って最初に言い出したのは誰なのかしら〜
 アリムラユウがSF研のチャットで訊いてきやがった質問。
 答えはなんですが、眼鏡者にとってこの質問はそもそも意味がない。眼鏡っ娘を見ているに決まってるから。
 でも、この質問をきっかけにはいぼく親分と一晩眼鏡の話をしてしまった不思議。
 要は、この眼鏡者にとっての永遠の問いについて。




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