8月16日(月) 美少女ゲームの臨界点・その1
掲示板にも書いたけど基本的にはいい本です。
声優関係のトピックが全て無視である以上俺の魂とは一切全くこれっぽっちも欠片も関係のないお話ばかりではありますが。
90年代に十代を送った当たり前のオタクの実感とはかなりずれた正史を佐藤心が提示し、そこにやっぱり実感とずれた更科修一郎のオルタナティブヒストリーが対置されていて、で結局俺らの十代はなんだったのよ、てのは分らないまま黙殺されるわけさ。
それは更科さんが『ライトノベル完全読本』と『ファウスト』の両方にスレイヤーズはなかった事にしたい史観の持ち主だからという理由で出入りできるのと同じ原理なわけさ(8/20追記;これは無論更科さんがこのような史観の主唱者である事は意味しません。詳しくはこちらのコメント欄を。なお、乙樹氏や太田氏と膝突き詰めて史観を語り合ったわけではありませんが、出来上がった雑誌の誌面がもってしまった史観とイデオロギーについては、編集者はむしろ胸を張ってその責任を引き受けるべきでしょう)。
そしてそういう史観を主張したい事情も理解できてしまうわけさ。
いやになるね、自分の人の好さが。
・『雫』の時代の終わりから 原田宇陀児インタビュー
当時の証言として興味深い。
以上、終わり。
・美少女ゲームの起源 ササキバラゴウインタビュー
理解に苦しむのだが、高々週二〇本のアニメを学生が見る事がどうして特殊な事でありうるのだろう?
アニメが好き、とはアニメ絵にアニメ声のついた、動いたり動かなかったりするあれを見ているだけでなんだか幸せになれるという事だ。ならばそれを週二〇本というのはむしろ楽しい事であるはずだ。オタクとしてのなんだかんだなんてのは全部そのあとからやってくる。そのあとからしかやってこない。
形式への興味が内容への評価に先行する事をオタク的というならそれがまさしくオタク的な振る舞いそのものなんだろうけど。
そういうオタク的な振る舞いに最も自覚的なのは元長柾木で、最も無自覚なのは更科修一郎だと思う。正確にこれは”濃さ”の逆順なのですね。
・『雫』の時代、青の時代
更科さんが”オタクに逐われた俺(ら)”及び”逐うオタク”を語り続ける事はハイエンド系周りの論争で「ホットミルク」の編集を実際にクビになったという彼の個人的な来歴に照らし合わせて全く以って正当な事だと思う。あくまででもそれは更科修一郎の個人的な来歴として、であって、客観的な歴史叙述ではそもありえない。そういうオーラルヒストリー的っつーかオルタナティブヒストリー的なものばかりが重視される事に疑問はなくはない、全体として。
オタク正史的な”逐われるオタク”を感動的に描き出した『趣都の誕生』の森川嘉一郎が新伝綺派の太田”J”克史&笠井潔と並ぶこの本全体のもう一方の仮想敵であるのはその辺考えると実に納得の行く話でもある。
・回想―時代が終わり、祭りが始まった
時計の針を六年戻せばそこには『センチ』があるわけさ。十年ずらしてサイバーパンクを持ち出す事大主義には辟易してもいいんだけどまあ納得は行く。
続く。
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