2月20日(金) めんどくさいはなし。
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ステレオタイプな誤用
象徴界の機能不全、という術語が危険だと思うのは、それがあまりに容易に「キレる17歳」的な若者恐怖の言説とパラレルな関係を結びうるからにほかならない。「動物化」もそうで、東浩紀には自身の言説の政治性に無頓着な部分があり、本人がニュートラルに分析しているだけのつもりで用いた言葉が他の人間によって若者蔑視・コミュニケーション拒否のための方便に利用される危険にもうちょっと自覚的になってもらいたいところだがそれは余談。
具体的な(個々人の)精神病理の局面でないところで用いられるラカンの教説は全て比喩であると、まずは言っていい。
比喩とは両者の類似している部分だけに着目するものであるが、しかしにもかかわらずそこで着目されていないはずの部分のイメージもオーバーラップしてしまう事があまりに多々ある。
あいつはアイヒマンみたいな奴だ、と誰かを形容する。それが職務と組織に忠実だという点に着目したのだとしても、この比喩はその「あいつ」が暗にナチス戦犯の如き悪漢だという含みをほぼ絶対に持ってしまう。
そういう事には細心の注意を一応払っていきたいところ。
そういや比喩と言えば、シミュラークルという言葉も難しい。
例えばここに『マリア様がみてる』の一巻がある。これと同じ芸術的内実を持つものはいくらも存在する。本屋の棚にもそのへんのオタクさんの本棚にも並んでいるだろう。ひょっとしたらこのマンションにももう1,2冊は転がっているかも知れない。
これらは同じ芸術的内実を持った大量生産品、従ってコピーであるはずだ。しかし、コピーならばオリジナルが存在するはずである。
『マリア様がみてる』第一巻のオリジナルとはなんだろうか?
原稿? 玉稿なんてのを有り難がるのは文献学者と一部のマニアだけだ。というか、事に拠ったらそれはただのデジタルデータだ。作者手入力のデータのアウラ、なんて頭が痛くなる事をキミは言ってみたいかい?
そう、これらのコピーには、オリジナルが存在しない。
このような、オリジナルなきコピーの事をシミュラークルと言うのだ。
これは、古典的な絵画とそのカタログのような明確なオリジナル・コピー関係とは一線を画するありようなのである、が、これは比喩表現なのかそれとも違うなのか。
よくわからない。
比喩でないとすると、確かに新しい現象(500年スパンで言えばな)ではありそうだがそうでないのならば微妙、というか良く分らない。
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なんだかよくわからないお話。
『Fate』と『未来にキスを』をやっていて思いついたこと。
どっちも所謂恋愛ゲームの範疇からははみ出してしまうようなところがあって、それはそれぞれ恋愛を完全に道具立てにしてしまっているのと完全に主題にしてしまっているからなのだけれど、では恋愛ゲームらしさはその中間のいいバランスなとこ、としてしか説明できないのだろうか。
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